見た目がすげえ

カルト宗教2世がアラサーになりました。社会不適合者の回顧録。

なんで自殺できないのか考えてみた

 

隙あらば死にたい。

 

希死念慮と言ったら良いのかわからないけど、死ぬことに子どもの頃から憧れてる。

死ねば楽になるじゃん。今を生きて将来考えるより、死んだ方が得じゃん。

 

こんな理屈だけど、実行する気にはならない。

例えば、不慮の事故で…とか。急に隕石が落ちてくるとか。悪性のカキに当たっちゃうとか。

自分の意思の外で死にたい。

 

だから、もし今日死ねたらラッキーだな〜って思いながら過ごしてる。

 

それで、本題なんですが。

なんで自殺しないんだろう?

 

「しちゃいけない」っていう主張なら、昔から色々な精神論(生きたくても生きれない人はいるんだとかご両親や友達が悲しむとかなんとか)や宗教が理由を説明しているんだけど、

 

「しない」つまり本人が自殺を選択しない理由ってなんだろう。

 

4人に1人が自殺を考えたことがある時代だってどこかで聞いたけど、その全員が自殺するわけではない。

 

けれど、科学をイデオロギーと選択する人なら誰だってわかるじゃないか。

どんな人生を歩もうと、この瞬間死んだ方がずっと楽だってこと。

 

 

この問いを検証すべく、自分であれこれ考えてみた。

自分って一番身近な観察対象だもんね!

 

〜検証回路〜

だから、自殺できないって言うのは自殺する瞬間が怖いじゃん。痛そうだし。痛いことも苦しいこともしたくないもん。例えばいじめとか?病気とか?もう死ぬ痛みの方が断然マシだー!!ってぐらいの苦境に立たされたら迷わず自殺するけど、、、そんなキッカケもないし。たしかにさ、明日も明後日もだらだら生きていくのに希望持てないな〜って思ってはいるよ、けど今の状況ならとりあえず痛みも苦しみも感じて実行しようとも思わないかなって。

 

 

検証終了。

 

人は長期的な苦しみより目の前の痛みを恐れる。

それだから、今死んでやろうという合理的選択よりも、だらだらとまどろみの中で生き続けてしまうのである。

 

上記からわかった結論。ここ大事ですよー。

自殺する/しないに合理的評価は下せないのだ。

 

 

わたしは自殺を肯定も否定もしない。

死ぬ瞬間の恐怖や痛みに耐えられるなら、志望校決めるみたいに、転職するみたいに、人生の選択肢として採ればいいだけのことだ。

 

当分、わたしのまどろみは続きそうなんだけれど。

一人っ子は往々にして失敗作である

半年程小学生の家庭教師をする機会があった。

その家族構成

→[祖父・祖母・父・長男(小6)・次男(小1)・三男(3歳)]

教えてたのは長男の小6男子だ。

兄弟のいない私にとって、この年頃の男の子の世話は初めての経験だった。

奴らはまったく宇宙人だった。

 

しかもこの長男・次男が毎度しょうもないことで喧嘩するのなんの。

でもこの喧嘩にすんごく憧れた!

 

一人っ子は親を独占できる。でも、つまりは身近な喧嘩相手が大人しかいないってことだ。

子供時代の親は絶対だ。駄々こねて対抗したって。親が正しいに決まってる。

小さな意見の対立なら、胸の奥底に仕舞い込んでしまう。大人と喧嘩して勝てるわけないんだもん。

 あぁ、兄弟いたら良かったな~…

 

それに毒親傾向の両親持つと、同じ立場で相談できる相手が欲しいって思う。全部自分で解決しないといけないプレッシャーがある。

 

一人っ子とか長女長男が受ける育児って、愛情も毒も過剰だ。

両親もね、子どもがせめて2人いれば、気持ちのぶつけどころも分散できたと思うの。子どもを実験台にしたとしても、ちょっとずつ学んでいけた。一人に集中放火しなくて済むし。

初めての子育てだったんだから。いきなり本番なんだから。

 

こんな見えない欠損を、現代多くの人が抱えている。

そうして世の一人っ子は往々にして失敗作なのだ。

カルト2世、家を出る(後)

実家のカルト宗教から脱出するまでの記録。

団体が特定されないように呼称など変えている点もあります。

 

後編 高校以降のこと

 

3. 高校時代

高校入試当日の朝、母親は私に「お守り」を持たせたがった。

「お守り」は信仰団体としては重要な意味合いを持つもので、相変わらず両親は肌身離さず携帯していた。私は中学3年頃からお守りを持ち歩かなくなった。両親は反抗期の一つだと考えたらしい。別段とやかく言わなかった。

入試という大事な日なんだから尚更持って行きたくなかった。しかし親は、まったく逆の発想から、持って行けと言う。一悶着あって、結局持っていくことになった。

 そんな最悪の気分で受験したけれど、志望校には合格した。

 高校では変わろうっていう前向きな気持ちが強くて、クラスにすぐ馴染めたと思う。けれどやっぱり周囲の子が何考えてるのか、さっぱり分からなかった。

 

この時期になると両親も娘の心境の変化を察していた。信仰団体のきまりで、定期的に外部施設に参拝へ行くことになっている。週末の両親の参拝に私はついて行かなくなっていた。けれども儀礼から完全に解放されたわけではない。毎日2回の「お祈り」は嫌々参加していた。

 「お祈り」の席順は、必ず年長者が一番前ということになっている。うちでは、父が先頭、後ろに私と母が並ぶ。全員が前を向く。

 

ある日のお祈りの最中に心臓のバクバクが止まらなくなった。その日以来症状は毎日続くことになる。心臓のバクバクは不思議なことに両親に見られるとピタっと止んだ。

過呼吸」というものを当時は知らなかったけれど、今考えるときっとそうだったんだろう。どのみち、身体が限界を訴えていた。

 

「宗教やめたい」

ついに両親に訴えたのは、高校1年の秋頃だったか。話しながら、涙がボロボロこぼれた。

 

高校生になってからは具体的に宗教から脱退しよう、という危機意識が芽生えてきていて、同時に両親とは絶対的に対立するはめになるんだろうな、とも感じていた。それでまずは敵を知ろうと思って、宗教団体の名前をネット検索にかけてみた。

見たものは想像以上だった。どのページをみても、それは「カルト宗教」と呼ばれていた。まだそのときまで、宗教団体は生活の一部だった。それを初めて外部から見て、ショックは本当に強かったんだけど、自分の考えに確信を持つこともできた。

そして、とうとう両親に打ち明けたのだった。

 

その場で両親はなにも否定しなかった。

ただ、母は娘をなだめようとする。抱きしめる。父は自分のペースで良いんだよという。やってること・言ってることが、全て見当違いだった。

 翌日から娘が本当にお祈りしなくなって、両親は事の重大さに気づいたみたいだった。朝晩決まった時間には険悪なムードが流れた。

 

その年のクリスマスに、父にウォークマンを買ってもらった。その日の晩もお祈りに参加しなかった。

「あんたは自分の都合良い事ばっかりやな」

母親が吐き捨てるように言った。 

 

高校1年生が終わる頃から過食嘔吐するようになっていた。両親が不仲になっていった時期だし、周囲の子との人間関係にも悩んでいた。宗教もそうした要因の一つに過ぎない。けれども、朝晩吐くことが確実に新しい生活の習慣になっていった。食と生きる事が結びつかなくなっていく。

過食嘔吐は高校3年まで続いて、その間体重は39~61キロを行ったり来たりした。

 

中学3年以来宗教のことを他人には話していなかった。

再び打ち明けた相手は、高校3年時の担任の先生である。

高校3年生に上がった頃は摂食障害が悪化して、無断で学校休んだり、一度も教科書見ずにテスト受けたりしていた。

学校を遅刻して行った日、登校するとまず担任の先生に会って、ご両親とは上手くいってるの、と聞かれた。この人は信頼できるんじゃないか?少し前から直感していたところはあった。正直言えば、ずっとこの人に打ち明けたかった。宗教のこと、自分が他のこと違うんじゃないかって不安なこと。

先生は最後まで遮らずに聞いてくれた。

 

そして、

あなたは優しいし、何事もよく考えてる。まだ若いから周囲と打ち解けられないって気にしちゃうのね。年をとれば自分との折り合いもつけられるから。ご両親と宗教から自立して生きるために、まずは大学へ行きなさい。

こう言ってもらえた。

 

 短い人生で一番響いた言葉だし、生まれ変わった気持ちにもなって、その日から、大学受験する目的は「家を出て、一人暮らしすること」に定まった。

 

一年浪人の末、志望校に合格した。そこは実家から遠く離れたところにあって、下宿しないと通えない大学だった。

こうして私は家を出た。

  

現在、大学4年生です。

今でも親の心境は想像つきますが、ここ数年間は一切儀礼に立ち会っていません。

 

カルト2世、家を出る(前)

前編 中学までのこと

 

自分の家庭が普通じゃないって思い始めたのは、多分10歳くらいからだと思う。

両親は新興宗教に入信していて、一人っ子の私も生まれた時から信者だった。

それから、数年後。高校1年のときに、親に宗教辞めるって宣言した。

 

* 

私は今大学4年生で、カルト宗教2世ということ、それに伴う毒親育ちってことから、なんとか抜け出そうともがいています。

そういうわけで、宗教からの離脱と重なる自分の半生を紹介させてください。

 

1. 小学校まで

カルト宗教に入っている以外はいたって普通の家庭だった(実際は後から色々問題露呈するんだけども)。お母さんはいつも明るくて笑いが絶えないし、お父さんも愛情表現こそ下手だけど優しい。それで、我が家の毎日の習慣が「お祈り」で、朝と夜の1日2回が鉄則だ。

大概の宗教はそういう性質を帯びるんだろうけども、うちの宗教も潔癖な傾向が強かった。それは、普段の行いに関して。例えば「嘘をついてはいけない」とか、「人の悪口を言ってはいけない」とか。それは確かに正しいことなんだけど、100%綺麗でいるなんてそれこそ聖者でないとできないよ。

けれど、私は本当に潔癖にそれを守っていた。クラスの男子に落書きされても、その子のこと悪く言わなかった。それに女子なんかませてて「あの芸能人整形だよね?」なんて大人の真似して話すんだけど、そんな会話もダメだった。

子供たちは周りの大人から教科書通りの倫理観を学んで成長するんだけど、ある段階でそれは上辺のルールなんだって気付く。それに、私は気づけなかった。私と周りの子の会話に摩擦が生じるようになるのは、時間の問題だった。

小学校高学年頃から、私は急に無口な子になっていった(と、後から母が言っている)。中学に上がった頃、まったく他の子の考えてることが分からなくなっていた。そして、中一の秋、私は不登校になった。

 

 

2. 中学校時代

不登校になった理由は当時自分でもわからなかったんだけど、今にしてみれば、他の子が自由に発言できるのが理解できなかったのだ。私は、喋る時まず「相手を傷つけないか」を心配して、慎重に言葉を選んで発言していた。でも、普通の人なら、日常会話レベルでそこまで慎重になんかならない。その点でスラスラ自分の考えが話せる同世代の子たちに、劣等感を持ったのだった。そこから、同世代の子に限らず、人間と関わる方法がわからなくなってしまった。

 

不登校になって気づいたことがある。「親は万能じゃない」っていうことだ。子供が自立する段階で、いつかはこの事実を悟る。私はこのタイミングだった。

母は娘が不登校になった事実にひどく取り乱して、当時の私には暴言ともとれることを散々言ってきた。もう、それまでの何でも肯定してくれる母親じゃなくなった。

親は万能じゃない証拠に、母は矛盾をはらんだ存在だった。「悪口を言ってはいけない」という宗教の教えを娘には押し付けるのに、自分は職場の人の悪口を散々私に言い聞かせてくる。これまで、胸の内に秘めていた「違和感」が、全部「親の矛盾」として露呈していった。

 

不登校自体は中学一年のうちに収束する。2年からはマトモに通うようになった。けれど、この間の学校の記憶ってあまり残ってない。

 

色々あったような、何もなかったような気もするけど、中学3年になった。

みんな、大人になろうと必死にもがいて、家族より友人関係が専らの心配事だった。私にも小学校からずっと付き合っていてくれてた友達がいて、あるとき、その子に全部打ち明けたいな、と思うようになった。

勇気を出して、告白した。

けれど、結果は何も伝わらなかったんだと思う。

そりゃそうだ。この日本で暮らしていて、それで普通の中学生だったら、宗教なんて話、いきなりきいて理解できないに決まってる。

冷静に自分を諭した。もう一人の自分になって自分に語りかけるって、この頃には日課になっていた。

数日後、その友達が、母親が家の玄関で宗教勧誘を追い払った話を笑いながらしているのを見て、吐きそうになった。

 

(後編に続きます)